<日本人と桜>
私の大好きな桜について、藤原正彦「国家の品格」よりその一節を紹介します。
桜の花に何を見るか
・・・日本人の感性の鋭さの一例が、例えば桜の花に対するものです。
桜の花は、ご存じのように本当に奇麗なのはたったの三、四日です。しかも、その時をじっと狙っていたかのように、毎年、風や嵐が吹きまくる。それで「アアアー」と思っているうちに散ってしまう。
日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の坊のような木を日本中に植えているのです。
桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、
花でも咲かなければ引っこ抜きたくなるような木です。
しかし日本人は、桜の花が咲くこの三、四日に無上の価値を置く。
たったの三、四日に命をかけて潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。
桜の花の時期になると、みながうきうきします。桜前線が南から上がって来ると、もう吉野は満開かな、高遠や小田原はどうだろう、千鳥ケ淵や井の頭公園は来週かな、弘前の桜はいつになるだろうなどと、みな自分の知っている桜の名所が気になり出す。桜前線が地元に至ると、今度は天候を心配します。天候を心配するのは、花見の幹事だけではありません。
桜は人生そのものの象徴だから、誰もが気になって仕方ないのです。
アメリカ・ワシントンのポトマック川沿いにも、荒川堤から持って行った美しい桜が咲きます。
日本の桜より美しいかも知れない。しかし、アメリカ人にとってそれは「オー・ワンダフル」「オー・ビューティフル」と眺める対象に過ぎない。
そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。
藤原正彦「この国のけじめ」より、更に一節
武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな蓄薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。
薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、
敷島の大和心を人間はば
朝日に匂ふ山桜花
を引いている。
蕎薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど辣を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。
それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。
自然の大きな力に逆らわず潔く散る。
「太陽東より昇ってまず絶東の島?を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が大和心の本質と新渡戸は説く。
本当に桜は気高かい孤高の花のようです。