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<日光戦場ヶ原>・・・写真5枚によるパノラマ合成。左右の木道がほぼ直線なので180度の展望です。)

教育と幸福

日本の大学進学率は男女平均で今や5割を超えています。学生運動の盛んだった昭和40年頃は2割にも満たなかったことを思えば、日本の経済成長に伴い、一気に高学歴社会に突入したということになります。
(この数値はネット上のデータなので、あくまでも目安です。)
又、都市部では、短大、専門学校も含めると9割方進学している様に見えます。

その高学歴社会について少し考えて見ます。
教育そのものの是非について専門外の私がもの申すのは畏れ多いことゆえ省くとして、少なくとも教育は人間の心を豊かにし、結果的に平和な社会と人々の幸福に繋がるものと誰しも信じて疑わない普遍の真理だった筈です。
ならば高学歴社会の現代はその様に争いごともなく、平和で豊かな社会になっているのでしょうか。答えは「NO」といわざるを得ません。

今日の日本は誰の目にも国民が望んでいるような平和で豊かな国とはいえない状況です。
経済大国の基盤も崩れ今や借金大国。政治家や官僚、医者や教員、裁判官、弁護士、警察官など、かつて先生と崇められた聖職も今や信頼を失い、一流企業も倫理に反することをやってはトップが言い訳の謝罪会見をする。そんな場面をテレビを通じていやというほど見せられましたが、聞く側の心に響く反省の態度は微塵も感じられません。
一般国民のモラル低下も極まれり、どこを取っても正常とは言い難いのが現状ではないでしょうか。
新聞やテレビニュースでは親族殺人や猟奇殺人など信じられない事件が毎日の様に報道されています。これが目指す高学歴社会の成れの果てかと疑ってしまいます。

高学歴によって身に付けた上辺の知識が人々から謙虚さを奪い、自己主張だけが強い人間を量産しているというという一面が現代教育に見られる様な気がします。
教育における男女同権も女性の地位と意識レベルを著しく向上させました。
かつて日本女性は、子供の頃から慎ましさとか淑やかさを教え込まれ、つい最近まで脈々とその伝統は受け継がれて来ました。が、戦後になると反男尊女卑、男女平等を強調するあまり、今や女性上位の逆転現象すら起こっています。

昔から、上州のかかあ天下や、九州男児ならぬ九州女は気が強いといわれており、基本的に女性の強さは潜在していました。(但し、これは「女は弱し、されど母は強し」という話です。)
そして、かつて多くの女性は、かかあ天下だったとしても、人前では夫を立てるという技量も身につけていました。つまり夫を自由にさせているようでも、しっかり手綱は握っていたようです。こういった良妻賢母や肝っ玉母さんとは全く様相が変わって、ただわがままを主張する女性が増えたのも事実です。
話が逸れましたが、女性が強いことを問題といっているわけではなく、次のような社会現象に繋がっていると考えられます。
「女性の高学歴化」→「社会進出」→「地位向上と自立」は不幸にも離婚率を高める要因に繋がっております。事実年々離婚率は高くなっており、結果母子家庭、父子家庭が増え、核家族を超えて超核家族化が進み、日本の伝統的な家族・家庭のスタイルが大きく変わってしまいました。このことも少なからず「家族のあるべき姿」に逆行しているといえます。
さしずめ一番の犠牲者はその子供達ですが。

藤原正彦の『国家の品格』にこんなくだりがありました。
<以下引用>

 『最悪は“情緒力がなくて論理的な人”』
一番困るのは、情緒に欠けて、論理的思考能力はばっちり、というタイプの人です。
 ここに非常に頭の良い男がいるとします。東大の法学部を一番で出たとします。当然ながら、論理的思考は得意中の得意です。しかし、東大に入るまでに情緒力はあまり試されないから、こちらはあまり発達していないと仮定します。
仮に彼が出発点を誤って選んだとする。もちろん後の論理は絶対に間違えない。すると、後の論理が正しければ正しいほど、結論は絶対的な誤りになります。
 あまり頭が良くない人なら、途中で論理が二転、三転して、最後には正しい結論に戻ったりもしますが、下手に頭が良いとそのまま行ってしまう。頭はよいのに出発点を選ぶ情緒力の育っていない人というのが、非常に怖いのです。<引用終わり>

これは裁判における弁護人にも当てはまると思います。はじめに無罪を前提に論理を組み立てます。無罪というスタートが決まれば、あとの理屈は何とでも組み立てられます。
理屈なんてそんなものです。『膏薬と屁理屈はどこにでも着く』という例えの如くです。

高学歴社会に伴い大学の学力も千差万別、格差も拡大しています。
ろくに勉強をしなくてもとりあえず卒業できるという大学もあります。
そしてそんな人に限って、屁理屈をこねることに長けていたりします。
義務は果たさず権利だけを主張するタイプです。
PTAで教職員泣かせの始末の悪い馬鹿親(俗称;モンスターペアレント)も実はこの類です。

高学歴社会の背景に受験戦争があります。幼稚園のお受験に始まり、受験戦争を勝ち抜く事だけが真理と教え込まれ育ったとしたら、他人を思いやる優しい心や情緒が備わるはずがありません。年齢に応じて体験する事柄が人格形成に大きな意味を持ち、その中から他人を思いやる心や情緒が備わると思います。
今の教育が、お金や物にしか価値感を持たない、情緒の欠けた人間しか生み出せないとしたら、それは誤った教育と言わざるを得ません。
詰め込み教育が悪いといって、さりとて誤ったゆとり教育も問題です。(あわてて見直しに入ってますが。)
お金に繋がらない非生産的な行為が無駄と考えるなら、文化の存在価値はありません。
そして文化のないところに情緒豊かな人間が育つはずがありません。
以上掲げた内容から、今の高学歴社会は人々を幸福にしているとは言えそうにありません。
だからといって、それを教育が悪いと短絡するのは早計です。
教育そのものが悪いのではなく、経済至上主義の陰に埋もれてしまった倫理観の欠如に尽きると思います。いつの間にか教育カリキュラムから消えてしまった道徳。
これが身勝手な人間を量産する結果に繋がっているような気がします。
皆が当たり前のように自由を主張します。しかし多くの人が『誤った自由』のとらえ方をしています。これがあらゆるところに影響を及ぼしている諸悪の根源とさえ思えます。
誤った自由とは、自分のことしか考えない身勝手な自由のことです。
自由は国民に平等に与えられ、憲法でも保障された権利です。
しかしみんながそれを主張するあまり、人間関係がギスギスするのです。
『自分の自由は他人の不自由』なのです。
自分の自由と供に、他人の自由も認めなければいけないと思います。
それが思いやりの心です。

その様なことを教育現場でも積極的に教え込む必要があると思います。

戦前戦中の思想教育から解放され、誰もが自由を享受できる時代になり、自由という言葉が美化され、もてはやされてきました。
また、国民生活も裕福になるにつれ、他人の世話にならなくても生きていくことが出来るようになりました。それを後押しするように、個人のプライバシーということが尊重されるようになると、もはや煩わしい近所付き合いなど無意味となり、個人で自由に楽しむという考えが主流となってしまいました。(特に都会の場合)
かくして『和をもって尊し』の日本人の根本精神は失われ、『ALWAYS 三丁目の夕日』にみられる近所付き合いは姿を消し、自分さえ良ければ精神が蔓延し、それが今日のすさんだ社会に繋がっているのだと思います。
こういった状況は一朝一夕に変わるものではなく、10年、20年という長い時間を要します。
ということはこの極悪状態はまだまだ継続するという、恐ろしい結論になりそうです。
安倍前総理は『美しい日本』をキャッチフレーズに、教育基本法の見直しに力を入れておりましたが、残念ながら周知のような事態で頓挫してしまいました。
一刻も早くこの現状を打開しなければならないのに、一歩後退してしまいました。
残念ならぬ断念でした。

                • 弾 塊人


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日光霧降高原牧場







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湯西川温泉付近






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横浜新港付近






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川崎妙楽寺

ここに掲載した4枚の写真は全く脈略がありません。